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『論語と算盤』初版本出版日◆パリから帰国後の渋沢栄一と静岡

2021年9月13日

今から105年前の今日、1916(大正5)年9月13日に、渋沢栄一の著書『論語と算盤(そろばん)』の初版本が出版されました。
この著作の中で、渋沢栄一はタイトルの元となった「論語(理念)と算盤(利益)は両立する」ことの重要性を説いています。渋沢栄一が創立した東京ガスでは、今でもその理念が強く根づいています。

パリから帰国後、渋沢栄一の名が知れ渡った静岡での活躍とは?

渋沢栄一の生涯を描く、大河ドラマ「青天を衝け」。(2021年9月13日)現在、パリから帰国した渋沢栄一のエピソードが放送されています。

フランス滞在中の渋沢栄一に衝撃を与えたのは、渋沢栄一が仕える主君、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上したというビッグニュースでした。

1868(明治元)年に帰国した渋沢栄一は、身の回りの整理や報告を終えたのちに、慶喜が居を構える静岡へと赴きます。慶喜に固く忠誠を誓っていた渋沢栄一は、残りの生涯を慶喜のもとで送る決心を固めていました。

東京ガス創立者 渋沢栄一 フランス時代の肖像写真
1867(慶応3)年

かつて全国を統べていた将軍から、静岡の統治者となった徳川家は、領地が70万石に減少し、財政再建の急務に追われていました。そこで渋沢栄一はパリで学んだ知見を活かし、1869(明治2)年に官民合同の出資を募って「商法会所」を設立します。

この「商法会所」は、他の地域から穀物を買い付け、静岡からは特産品の茶などを販売して流通を拡大させる「商社」としての役割と、商品を担保に資金貸与を行う「銀行」としての役割を兼ねるものでした。この事業が大成功をおさめ、渋沢栄一は静岡の経済振興に大きな貢献を果たすこととなります。

商人などの出資を資本金とし、利益がでれば出資金額に応じて配当金が出されるというシステムの「商法会所」は、まさに現代の株式会社そのものでした。

 
茶農家などに資金を融資したり、製茶工場を設立したりなど、現在に続く特産品である「静岡茶」発展の礎を築いたともいわれています。

徳川慶喜 肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

渋沢栄一の「合本主義」と『論語と算盤』

渋沢栄一著『論語と算盤』 1916(大正5)年9月に発行された初版本より、凡例中の「渋沢男爵」を「渋沢子爵」と改め、昭和2年(1927年)2月に忠誠堂より発行されたもの。 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「商法会所」のアイディアは、フランスで学んだ近代的な経済制度に刺激を受け、渋沢栄一が構想を練っていた「合本主義」に基づくものでした。
この「合本主義」は、単に「利益追求」のみを目的にするのではなく、「公益追求」を目的とし、その実現のために、最も適した人材や資本を集めて事業を推進させるという考え方で、渋沢栄一が『論語と算盤』に記している「論語と算盤は両立する」の理念とも大いに通ずるものがあります。

静岡で「商法会所」を設立したとき、渋沢栄一は弱冠29歳でした。『論語と算盤』を出版するのは、それから47年後の渋沢栄一が76歳の時のことですが、若い頃から確固たる信念を持ち続けていたようです。

富士山の錦絵をご紹介!

静岡で手腕を振るっていた渋沢栄一のもとに、明治新政府からの召状が届いたのは「商法会所」の設立と同年の1869(明治2)年10月のことでした。その後、渋沢栄一は大隈重信の説得により大蔵省に入省し、活躍の舞台を静岡から日本経済へと移していくことになります。

今回は渋沢栄一の静岡での活躍にちなみ、東京ガス ガスミュージアム所蔵の富士山が描かれた錦絵も紹介します!文明開化を迎え、近代的な建物や交通手段が登場する東京・横浜と、そこから臨む富士山は錦絵のモチーフとして好まれ、多くの作品が生まれました。

わずか一年足らずで静岡を去ることになった渋沢栄一ですが、かつて渋沢栄一が生涯の忠誠を誓った徳川慶喜は、約20年間静岡で過ごしました。東京から富士山を眺めるとき、渋沢栄一は何を思っていたのでしょうか。

■『東京駿河町国立銀行繁栄図』 歌川広重(三代) /1873(明治6)年 木版画
駿河町(現:東京都中央区日本橋室町)の風景が描かれています。江戸時代、駿河町の通りを南西方向に眺めると、城向こうに富士山を望め、江戸随一の眺望であったところに、町名は由来しているといわれています。
明治になり、洋風建築の三井銀行が立つと、建物と共に富士の姿が多くの作品に取り上げられました。この三井銀行の設立には、渋沢栄一も関わっています。

 

■『江戸橋夕暮富士』 小林清親  /1879(明治12)年 木版画
日本橋側左岸より、江戸橋脇に灯ったばかりのガス燈を、作品内に大きく描いています。ガス燈に照らされた脇に立つ松の葉と、橋の名前が彫られた親柱を明るい色で描き、手前を進む人物をシルエットで描くことで、ガス燈が照らす光の広がりとその明るさが表されています。
江戸橋を渡った先は兜町で、渋沢栄一が関わった第一国立銀行や東京株式取引所がありました。

 

 

■『東京名所 日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図』 紅英斎  /1882(明治15)年 木版画
現在の日本橋南側の、日本橋一丁目付近が描かれています。
江戸時代より日本の道の起点である日本橋は、街並みや橋越しの富士の姿とともに、多くの作品に取り上げられました。

 

■『東京名所 常磐橋内紙幣寮新建之図』 歌川広重(三代) /1877(明治10)年 木版画
明治はじめの皇居の東側には、官公庁や軍関係の施設が並び、それらは東京の新名所として多くの錦絵に取り上げられました。
この作品に描かれている建物「紙幣寮(現:国立印刷局)」は紙幣や切手、印紙などの印刷工場で、大手町の大蔵省庁舎の隣接地に建てられました。

 

■『横浜往返蒸気車全図』 歌川広重(三代) /1871(明治4)年 木版画
鉄道開業時の横浜の起点であった、現在の桜木町駅から横浜駅にかけての路線は、海を埋め立て、営業を開始しました。この埋め立て造成を請け負ったのが高島嘉右衛門で、造成地の一部は払い下げられ、現在は高島町の一部となっています。
1875(明治8)年、松平家をはじめとした旧華族が中心となり結成された鉄道会社「東京鉄道組合」が、この新橋横浜間の官民鉄道の払い下げを計画しましたが、実現には至りませんでした。渋沢栄一は同組合の総代理人を務めていました。

 

■『横浜吉田橋ヨリ伊勢山太神宮遠景』 歌川広重(三代) /1870(明治3)年 木版画
作品に描かれている鉄橋は、1869(明治2)年に日本初のトラス式鉄橋として改架した吉田橋で、現在の馬車道と伊勢佐木町を結ぶものでした。木橋から生まれ変わった姿は「カネの橋」と呼ばれ、横浜の開化名所として多くの錦絵に描かれました。

 

東京ガス ガスミュージアム

ガスミュージアム外観

東京都小平市にある東京ガスの企業館「ガスミュージアム」では、明治時代の錦絵を400点以上所蔵しています。
主に企画展で錦絵をご覧頂けるほか、日本のガスの事業の歴史と、くらしとガスのかかわりをご紹介しています。
※現在臨時休館中です。
 
▼「ガスミュージアム」についてはこちら
https://www.gasmuseum.jp

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