【エピソード2】4大会目にして獲得した悲願の金メダル。挑み続け、たどり着いた“この日”。

君が代が流れた瞬間、涙が止まらなかった 君が代が流れた瞬間、涙が止まらなかった
PARAPHOTO/AKITOMI.Tetsuo

100mバタフライで金メダルを獲るための
レース戦略

オリンピック史上初の延期、無観客での開催と、異例づくめの大会となった東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下東京2020大会)。過去大会と大きく変えたのはレース戦略です。これまでは出場できる種目は全てエントリーしていましたが、東京2020大会では「金メダル獲得」だけを目標に、200m個人メドレー、100m平泳ぎ、100mバタフライの3種目に絞って出場。最終日の100mバタフライに照準を合わせて、ここで金メダルを獲れれば、他の種目で結果が出なくてもいいという強い気持ちを持って大会に臨みました。
大会期間中のコンディションはそこまで悪くなかったものの、過去大会とは明らかに異なる環境に不安を感じていました。選手村から外出することもできない、仲間を応援することもできない。自分が感染したら勝負の場に立つこともできない……。見えない敵との戦いに、これまでに感じたことのない緊張感を抱えながらレース初日を迎えました。

選手村のダイニングで共に過ごした仲間たちと 選手村のダイニングで共に過ごした仲間たちと

レース会場となった東京アクアティクスセンター レース会場となった東京アクアティクスセンター

金メダルを勝ち取った歓喜の瞬間に
湧き上がってきたのは安堵感。

最初に出場した200m個人メドレーは、緊張のせいか惜しくも5位。無観客でテンションが上がらず、やや不安な立ち上がりとなりました。続く2種目の100m平泳ぎでは落ち着きを取り戻して銀メダル。最終日に向けて、徐々にコンディションも上向いていきました。そして、運命の100mバタフライ決勝当日を迎えます。
前日は極度の緊張から睡眠時間はわずか2時間程度。決して万全とは言えない状態で、持てる力を振り絞りました。競技中はターンが合わなかったり、コースロープに当たって減速したりと、あまりいい記録ではないと自分でも理解していました。視覚障がいクラスの場合、全選手が泳ぎ終わるまで結果を知ることができないため、ゴールして数秒間は、ダメかもしれないという不安な気持ちと、なんとか泳ぎ切った安堵感……いろんな感情が入り混じった、初めての感覚でした。もちろん、金メダルを獲れたという手応えもありません。中学時代から僕を支えてくれていたタッパーの寺西真人先生から、金メダルだと告げられた時は、これまで感じたことのなかった喜びとともに、金メダルの呪いから解放されて「やっと終わった」という安堵の気持ちが湧きました。

ゴール瞬間の寺西先生のタッピング/写真:清水一二 ゴール瞬間の寺西先生のタッピング
写真:清水一二

仲間でもあり、ライバルでもある富田宇宙選手(奥)と競い合った/写真:清水一二 仲間でもあり、ライバルでもある富田宇宙選手(奥)と競い合った
写真:清水一二

日の丸は見えない、金メダルの色はわからないけど
表彰台の一番高い場所で国歌を聴きたい。

これまでパラリンピックをはじめ、様々な国際大会の表彰台に立たせてもらいました。けれど、パラリンピックという大舞台で、表彰台の一番高い場所に上がったのは初めての経験。表彰台に上がっても日の丸は見えませんし、金メダルが欲しいといってもその色はわかりません。ただ、表彰台の一番高い場所に立った者だけが耳にできる国歌「君が代」は特別で、今自分より速い人はいないと実感することができた瞬間でした。
それと同時に、30年ほどの人生のなかで、忘れたい過去や記憶が次々と呼び起こされました。最も過酷で辛い時期を過ごしたロンドンからリオまでのこと、金メダルに届かず失意の底に沈んだリオ2016パラリンピック競技大会のこと、言葉も文化もわからない新天地・アメリカで味わった無力さ……これまでのつらい日々が思いだされ、涙を抑えられませんでした。レース直後のインタビューで「この日のために頑張ってきた、“この日”は本当に来るんだ」と発言しましたが、苦しかった“その日”があったらこそ、“この日”があるんだと心の底から思いました。

金メダルだとわかった瞬間 /写真:清水一二 金メダルだとわかった瞬間
写真:清水一二

レース直後に寺西先生と喜びを分かち合った/写真:清水一二 レース直後に寺西先生と喜びを分かち合った
写真:清水一二

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