世界で初めてガスが使われたのは1792年のことでした。イギリスのマードック技師が石炭を蒸し焼きにしたときにできるガスを利用して、ガス灯をともしました。
そして1812年には、イギリスのウインザーらの努力により世界最初のガス会社がロンドンに設立されました。その後、欧米各地でガス会社ができ、明かりとしてガス灯が使われました。このころ日本は江戸時代で「鎖国」をおこなっており、外国との交流がなかったためにガスを使うことはすぐには伝わりませんでした。
ガス灯の説明を行うF.A.Winsor
ウィリアム・マードック
フレデリック・ウィンザー
ガス灯がともってまちはとても明るくなったんだね!
明治時代になって、社会の仕組みが大きく変わり外国との自由な交流もはじまり、西洋からいろいろな文化が伝わってきました。これは「文明開化」と呼ばれています。1872年(明治5年)、横浜で日本のガス事業が、フランス人アンリ・プレグランの指導の下、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)によって始まり、現代の馬車道通りに、街灯としてガス灯がともりました。横浜に遅れること2年後、1874年(明治7年)には東京の銀座通りにも街灯として85基のガス灯が輝くようになり、ガス灯は次第にその数を増やしていきました。
また、この頃流行った錦絵には、色鮮やかなガス灯が描かれ、小説や映画のバックとしても場面を盛り上げました。
アンリ・プレグラン (1841~1882) |
高島嘉右衛門 (1832~1914) |
瓦斯製造工場のあった金杉橋から新橋、日本橋を経て万代橋へ、途中本町から分岐して浅草橋、両国橋まで、当時計画されていた瓦斯街灯路線の、プレグラン直筆の大設計図で、右下に毛筆サインがあります。
東京瓦斯燈市街埋簡図絵
東京名所図会銀座通り煉瓦造り(とうきょうめいしょずえぎんざどおりれんがづくり) | ガス灯 |
明治の初め、東京のガス事業は東京府(今の東京都)が行っていましたが、1885 年(明治18)民間の企業である東京ガスが誕生しました。創立者は渋沢栄一です。
ガスの炎に、ナトリウム、カリウム、リチウム、銅(どう)をまぜると、それぞれきいろ、むらさき、あか、みどりの炎になります。これを炎色反応(えんしょくはんのう)といい、その炎を「花ガス」と呼んでいます。明治初期から大正時代までは、その炎で花や旗、文字などを形づくり、宣伝のための看板などに使われていました。
宣伝のための看板にもガスの炎が使われていたんだよ!
「イルミネーション」(復刻・復印刷)小林清親
当時のガス灯はガスが弱く噴き出しているところに火を近づけて、直接点火するものでした。そのため"点消方"(てんしょうかた)という専門の職業の人が点火棒を持って、夕方ガス灯をともし、朝その火を消していました。一人あたり50~100 本のガス灯を受け持ち勢いよく街中を走り回っていました。
割れたガラスの補修や清掃、ガスマントルの交換なども点消方の仕事でした。朝寝坊をするとガス灯がつきっぱなしになってしまうため、点消方は結こんしていなければなりませんでした。
まち中のガス灯を、毎日人がまわって火をつけたり、消したりしていたんだね!
点消方
当時は明かりとしてろうそくや行灯(あんどん)などが使われていて、ガス灯を見た人々はその明るさに驚き、「文明開化」の象徴としてとらえられていました。街灯として使われはじめたガス灯ですが、次第に、行灯などの代わりとして室内でもつかわれるようになりました。このころのガス灯は、ガスの炎がともる裸火(はだかび)の明かりのため、赤い光を放ち、炎がゆらめくものでした。当時の人たちはこの裸火のガスの明かりを、より便利で安定した明かりとして利用できないかと考え、その結果、発明されたものがマントルという発光体でした。
マントルをガスの炎の上にかぶせるようにして装着(そうちゃく)して使用すると青白い光を放ち、当時の人の言葉を借りると「裸火のガス灯に比べ約7倍明るい」といわれていました。そんな青白い光となった炎の色が好まれて、家庭でもつかわれるようになりました。
マントルとは、網袋に発光剤を浸みこませて乾燥させたもので、現在は、アウトドア用ガスランタンなどで使用されています。
ガス灯も、マントルの発見により、青白く進化した炎の色が好まれて、室内のあかりとしても、よりいっそう使われるようになっていったんだね!
ガスは最初の頃、あかりとして使われていたということは知っていたかな?明治のはじめ、日本に西洋の文化が急速に入ってきて、人々の生活も大きく変わっていったんだよ。